書かれたコトバの現在 ーコミュニケーションの基本用語

近代から現在に至るメディアが、それ以前のメディアと根本的に異なる点として、以前、次のように書いたことがあった


 人の区別の体系は円環運動せざるを得ないにもかかわらず、区別を固定し、区別された項を分離されたままにするコミュニケーション技術が、かつてなく強い影響力を持ってしまった、それが近代という時代なのかもしれない。

 同一の信号を一方通行的に大量に送出できる近代のメディアは、言葉の同一性を安定的に保つという上で、それ以前のメディアとは比較にならないほどの性能を持っている。一方通行&大量生産の言説流通システムは、予め区別された体系を至る所で大量に再生産することに長けている。

 もちろん近代以降の社会でも、この円環は回っているのだが、しばしば個々人のもとでミクロに始まる区別の揺らぎや、区別の体系の再建の試みを、一方通行的に送りつけられる大量の言葉がかき消してしまう。

なによりも私達自身が、自分がそれに拠っている区別の体系は安定的であるべきであり、その安定性は万一にもゆらぐべきではない、と信じることを容易くしているのが、このメディアではないだろうか。


この点に関連して、レヴィ=ストロースによる「近代人の社会」に関する次のような指摘を挙げておきたい。


  • われわれの他人との関係は(…断片的なもの以外…)一人の人間が他の一人によって具体的に理解されるということにもとづいてはいない。…われわれの人間関係は…書かれた資料を通しての、間接的な再構成にもとづいている。
  • われわれが過去に結び合わされているのは、もはや物語り師、司祭、賢者、故老などの人々との生きた接触を意味する口頭伝承によるのではなく、図書館につまった本によるのであり…

「社会科学における人類学の市および人類学の教育が提起する諸問題」,『構造人類学』p.407より


コトバを伝承する技術として、対面的な声を使うことと、文字を使うこと。

両者は単純に等価に交換できるような、同じことをするためのふたつの方法、本質的にどちらを使ってもいいふたつの方法ではない。


  • 文字が人間に大きな福利をもたらしたと同時に、人間からある本質的なものを取り上げてしまったということは、是非とも念頭に置かなければならない。間接のコミュニケーションの形(本、写真、新聞、放送、その他)に起因している自律性の喪失を認識するというただそれだけの…。

「社会科学における人類学の市および人類学の教育が提起する諸問題」,『構造人類学』p.408より


この論考では、さり気なく触れられている「間接のコミュニケーションに起因している自律性の喪失」ということ。これは近代以降の同一情報を大量生産するメディアに対しての批判と受け取れる。


自律性の喪失とはどういうことか。コトバを伝えられ、また誰かに伝えるということが、つどの伝承の場で息吹を与える生成の体験としてではなく、どこかに予め書き留められたものを精確にノイズに乱されることなく復元することになると、個々人は新たに意味の再生と伝承を担う必要がなくなる。


そこでは、伝承のための技術を身につけることは、コトバの伝承にとっては必要がないと目されるばかりか、場合によっては精確な同一物の伝承に雑音を混入させること、単一情報が透明な空間を移動してゆくなめらかな動きを、阻害する行為ともなる。そうなると自律性などは論外のノイズ発生源でしかない。

 


しかしながら今日のWebに広がるコトバは、そうした肯定的な意味での「ノイズ」として、同一性の大量伝送に楯突くように見える。

今日のWeb上に広がるコトバは、一方通行的である限りでは、依然として、都度の口承を成立させるものではないが、同一性の再生産という点では、コトバの意味をゆらし、ずらしてゆく力を持っている。この点ではWebの登場は、書き言葉を、近代以降の同一性の大量生産から救い出し、生けるものへと再生させる可能性を秘めている。

 

と同時に、その一方通行性、つまり特定の聞き手の耳と声を持たないという点では、まだ書き言葉としての性格を受け継いでいるのかもしれない。聞き手の耳と声を持たないという点では書き言葉としての性格を…

 

いや、しかしである。口承においても、そもそも聞き手など存在するのだろうか?


口承においては、自らの声が、聞き手の口から発せられる別の声や別の音、あるいは別のコトバとなって、いつもずれてゆく場に引きずり込まれる。言ったコトバは同一性を保ったままは伝わらないし、そもそも聞き手が聞いているのかどうかもわからない。そして予想もしなかったような別のコトバが、こんどはこちらの耳に飛び込み、こちらの口をついて出るコトバをずらしたり、雲散霧消させたりする。

 

そうして何かが伝わったような、伝わらないような、しかしコトバをやりとりしたという実感が強く残る、という経験。

 

あるいは、Webには一方通行性ということはありえないのかもしれない。


はじめから既に聞き手の耳はあり、他者の声はこちらに飛び込んでくるのである。


むしろ、そうした他者の異言を聞く耳を持たず、一方通行的であると認識してしまうのは、同一のコトバの大量生産・大量流通の中で訓育された私のような者が、それ以外の語り口を知らず、自らもまた、同一性を保ったままのコトバの送信者として振る舞ってしまうことと、表裏なのかもしれない。


少なくとも、口承の聞き手ということを、発信者の発した情報を、同一のまま再生する装置としての受信者、と言う意味で、理解してはならないのだろう


繰り返しのパターンを描くこと

「人類最古のアート? 40万年前の貝殻に発見」

http://jp.wsj.com/news/articles/SB10063842500352674697504580326350830588146

 

このようなニュースがWSJのWebサイトに掲載されていた。

 

この線が、 人類最古のアート、であるという。

 

繰り返しのパターンを描くことと、抽象的な概念を理解できること

この間にはどういう関係があるのだろうか?

 

抽象もまた、ひとつの「言い換え」である。

 

ある「具象的なもの」が言い換えられた先の言葉が、他の具象、更にその他の具象を言い換える際にも繰り返し反復して用いられるということ。たくさんの具象とひとつの抽象の間を行ったり来たり、リズムをとりつつ往復運動を繰り返すこと。

 

この繰り返し言い換える、何度も何度も同じように言い換える、という頭の使い方。

 

抽象的な概念と呼ばれるものは、この繰り返しを通じて浮かび上がる、多くのことをそれに言い換えうるひとつのこと。であろう。


アンドレ・ルロワ=グーランは、人類における「図示表現が現実を素朴に再現するのではなく、抽象することから始まった」と指摘する。ここで言う「表現」とは現実を別の所に再現することではない。端的に抽象すること、つまりリズムにのってパターンを描くことがあり、そこれこそが表現なのである。そうなると記号もまた、現実をどこかへ写し取るための道具、現実に従属した、現実のやむを得ない代理物、といった代物ではなくなる。リズムにのってパターンを描くこと、その運動こそが記号という操作の正体であり、いわゆる記号と呼ばれているモノは、この運動の痕跡ということになろう。

 

繰り返しの作業と、この作業を通じて小さなパターンを生み出し、小さなパターンを積み重ね続けて大きなパターンを生み出してしまうこと。それこそが、ことばを、しばしば「抽象的な概念」と呼ばれる、一見すると独立自存してるかに見えるモノを、生みだしたのかもしれない。

 

0 コメント

意味とは−コミュニケーションの基本用語

意味、というコトバは、コミュニケーションということを説明しようとすると必ず登場する。

この意味というのは、一体どういうことなのだろう?

意味の意味は、一体どういうふうに言えるのだろう?

 

意味の正体は「言い換え」である。

 

辞書のどこでも適当なページをみればわかるように、あるAというコトバの「意味」はBやCの他のコトバで言い換えられることで生まれている。赤信号の意味は「止まれ」、といった具合に。

ひとつひとつのコトバにはそれぞれ違った意味がある。つまり、ひとつひとつのコトバはそれぞれ違ったやり方で、別のコトバに言い換えることができる。

 

意味の正体というのは、この「言い換え」という操作、作用それ自体なのである。

 

と、ここに書いたことそれ自体が、意味というコトバを、別のコトバで言い換えてみた、ということだ。この言い換えを読んで、なるほどそうか、と思う方もいれば、そんなはずはないおかしいのではないか、と言う方もいるだろう。コミュニケーションの場面で「意味」が問題になるのは、まさにこの点だ。

 

人を納得させやすい、流通し拡散しやすい言い換えがある一方、人を納得させにくく、拡散しにくい言い換えもある。

 

なぜそのような違いが生まれるのか?

原因のひとつは、私たちの社会のメディアの「癖」にある。

言い換え、多様なパターンの言い換え、しばしば互いに矛盾するような複数の言い換えを、平気で流通させてしまうメディアがある一方、言い換えのルールを厳密に一定のパターンに押しとどめようとするメディアもある。

 

この「癖」は、おそらく…であるが、声、書かれた文字、大量生産される印刷物、一方通行で同型の情報を伝達できるマス・メディアなどの、技術的な条件に左右されている可能性がある。

 

単にイコール、さもコトバの外で予め等価関係がありそうな言い換えを好むメディアのモード。

他方で、両義的で互いに矛盾するような言い換えを巧みに駆使しつつ、思っても見なかったような言い換えを生み出してしまう巧妙なメディアのモード。

 

私たちの日常の経験を支えている、声や、書き言葉や、大量生産された印刷物や、テレビや、ネット上を流れていくコトバなど、重層的なメディアの布置が、どういう言い換えの「好み」を自分自身にもたらしているか、問うてみてはいかがだろうか?

 


広告