レヴィ=ストロースの神話理論から「メディア」を理解する −コミュニケーションの基本用語

レヴィ=ストロースによる神話の理論。

それは人間の想像力が、世界を「二項対立からなる網目」で捉えようとする癖を持っている、という説である。

二項対立は、対立する二項のあいだに緊張をつくりだす。

神話では、その緊張は媒介者の登場とその働きによって一時的に解決されるが、この媒介項はまた、新たな二項対立の一項に転じ、また新たな緊張をつくりだす。

この螺旋的循環は「神話の弁証法」と呼ばれる場合もある。


  • Aを非Aと区別する差異の導入。
  • 区別された項同士は互いに転換可能。
  • しかし、区別による分離は亢進し、転換が起きにくくなる。緊張状態。
  • 区別による分離の亢進は媒介者によって再びつなぎ合わされる。
  • しかし、媒介者は媒介者としての役割から排除され、新たな二項対立の一項へ。
  • 新たな区別の体系の安定、価値の安定、即ち緊張状態が訪れる。


区別されつつ、区別が固着すると、媒介者により一時的に区別が緩む。しかし媒介された状態は長く続かず、再び区別が際立ち、また固着してゆく。その先にまた媒介者が登場し区別を曖昧にするが、この媒介者もまた排除され、という螺旋状の展開が生じる。


社会にとってはこの螺旋状の展開を止めないことが大切である。


固着した価値が、分離させたものを、新たに入れ替え媒介する媒介者を呼び込むこと。その媒介者を排除しつつ、また呼び戻す、巧妙な周期的知性、神話的知性を、言説の運動として取り戻すこと。

これこそメディア論の、表には出にくいが最も根深いところにある課題である。

 

価値を転換させる媒介者。一度すでにある言説に乗る。権威の立場から見ていかに愚かしくとも、一度いまある愚かな言説に乗ること。その中で、言葉の組み合わせを変える、対立関係を入れ替える、価値を転換する。そして新たな組み合わせを見せ、言説を別様にする。 


人間とその社会が、どれほど区別の体系をひとつに固定化させようと臨んだとしても、螺旋状の「神話の弁証法」の展開を完全に止めることは、おそらく不可能だろう。

そうだとすれば、この螺旋状の展開を、個々人が引き受けつつ、それでいて、展開を経て再び日常社会に戻ってこられるような仕掛けを施すことが、いかに重要であるか。


「神話の弁証法」的な意味の揺らぎと再建を、個々の人間が適度に経験できるような言説流通の仕掛けを持った社会。そういう社会を可能にするような「メディア」のあり方を構想する時期が来ているのかもしれない。 


言説−コミュニケーションの基本用語

個人や社会といった事は「言説」のさざ波の波頭のようなこと、として捉えうる。

 

内田隆三氏によれば、言説とは、歴史的な出来事として生み出される記号の体系や諸々の表現である。言説はそれ自体で時間を超えて存在するものではなく、「異なる人によって反復され、やがて消えてゆく」事柄、正体が固まらずにゆれ動く、流れのようである。

 

わたしたちひとりひとりは、自分が生まれ落ちた人々の間で、すでに使われていた言葉を借りて、語りうる対象を発見し、その意味を語ってゆく。わたしたちは多数のひとびとの間で反復される言葉の流れの中に掴み取られている。

 

言説を再生産し流通させるシステムが、メディアである。 メディアのあり方に応じて、異なる複数の形式の言説再生産流通システムがありうる。

 

例えば、大量生産された単一のメッセージを一方通行的に送信できるマス・メディア。その言説再生産流通システムとしての働き方の特徴は、言説の同質性、単一性を著しく高められる点にある。 

 

同質性、単一性を高められた言説は、その本来の「さざ波」としての振る舞いを、つまりゆらぎの上でかろうじて、価値の体系を維持しているという正体を隠す。あたかも同質性、単一性こそが本来の言説のあり方であり、ゆらぎは付随的なノイズである、といった感覚。

 

言葉とその意味をめぐっては、一方に、同質性と単一性が所与であり、ノイズとしての揺らぎを取り除こう、という考え方が、他方に、ゆらぎこそが正体であり、同一性と単一性は、ゆらぎながら流れていく言説を、その再生産と流通の仕組みを巧妙に制御したところではじめて得られる仮のものとする考え方がありうる。

 

前者が、同じ意味ということの無前提での伝送可能性を想定するのに対して、後者では、意味の同一性を保持するために巧妙な言説再生産の仕組みを運用する、という課題を私たちに求める。

 

仮に、言葉とその意味の同一性が、ゆらめくさざ波の小さな波頭のようなものとしてしか、ありえないのであれば、おそらく、近代メディアの環境が養った、同一性を所与の前提として要求することは、あまり器用なものではない。


意味は言い換えであり、言い換えのルールは常にゆらいでいる。すでにそれによって、私たちが自他を関係付けている言説。 その姿や、その変化の仕方を知ることが、異言を聴き、沈黙を聞く耳の出発点となり、ひいては意味ということを積極的に引き受ける根拠となりうる。


 

 


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