意味、というコトバは、コミュニケーションということを説明しようとすると必ず登場する。
この意味というのは、一体どういうことなのだろう?
意味の意味は、一体どういうふうに言えるのだろう?
意味の正体は「言い換え」である。
辞書のどこでも適当なページをみればわかるように、あるAというコトバの「意味」はBやCの他のコトバで言い換えられることで生まれている。赤信号の意味は「止まれ」、といった具合に。
ひとつひとつのコトバにはそれぞれ違った意味がある。つまり、ひとつひとつのコトバはそれぞれ違ったやり方で、別のコトバに言い換えることができる。
意味の正体というのは、この「言い換え」という操作、作用それ自体なのである。
と、ここに書いたことそれ自体が、意味というコトバを、別のコトバで言い換えてみた、ということだ。この言い換えを読んで、なるほどそうか、と思う方もいれば、そんなはずはないおかしいのではないか、と言う方もいるだろう。コミュニケーションの場面で「意味」が問題になるのは、まさにこの点だ。
人を納得させやすい、流通し拡散しやすい言い換えがある一方、人を納得させにくく、拡散しにくい言い換えもある。
なぜそのような違いが生まれるのか?
原因のひとつは、私たちの社会のメディアの「癖」にある。
言い換え、多様なパターンの言い換え、しばしば互いに矛盾するような複数の言い換えを、平気で流通させてしまうメディアがある一方、言い換えのルールを厳密に一定のパターンに押しとどめようとするメディアもある。
この「癖」は、おそらく…であるが、声、書かれた文字、大量生産される印刷物、一方通行で同型の情報を伝達できるマス・メディアなどの、技術的な条件に左右されている可能性がある。
単にイコール、さもコトバの外で予め等価関係がありそうな言い換えを好むメディアのモード。
他方で、両義的で互いに矛盾するような言い換えを巧みに駆使しつつ、思っても見なかったような言い換えを生み出してしまう巧妙なメディアのモード。
私たちの日常の経験を支えている、声や、書き言葉や、大量生産された印刷物や、テレビや、ネット上を流れていくコトバなど、重層的なメディアの布置が、どういう言い換えの「好み」を自分自身にもたらしているか、問うてみてはいかがだろうか?