声の文化・文字の文化ーコミュニケーションの基本用語

ウォルター・J. オングの著書に邦題『声の文化と文字の文化』というのがある。

声はメディアであり、文字もまたメディアである。

 

声(文字を持たない音声)というメディアと、文字というメディア、その両メディアの、いわば「言葉を流通させる仕組みの癖」に応じて、人間の言葉の使い方に異なる複数のパターンが生まれる。

 

文字を持たない音声メディアに基いて、複数の人の間で言葉を伝えてゆく社会では、言葉は時間と場所を超えて言葉を伝えるために、記憶し思い出しやすい形にパッケージされる。


文字のない世界では、思い出すことのできない言葉は消えてしまう。あるときある場所の一回性を超えて、言葉を伝えたいのであれば、例えば、リズムをとりつつ唄うこと、韻を踏むこと、決まり文句、同じことを繰り返し語る、といった技法を用いて同じ言葉を繰り返し発することができなくてはならない。


この繰り返しの過程で、つどの言い方は次々と変化してゆく。同じことを起源と同様にコピーして再現する、といったことは難しい。

 

これに対して文字の使用がもたらす一番の変化は、記憶をする手間が軽くなった、といった同じ座標軸上での量的変化ではない。質的に、言葉ということのあり方そのものが変化した。それは言葉が人の声、ある時ある場所での声を離れたところで、言葉そのものとして自存するもの、と感じられ始めたことだ。

 

文字が指し示す言葉は、時と場所、あるいはそれを語る人々を離れて、言葉だけで存在し、伝わっていくものだ、という感覚である。これが「ある言葉には正しい唯一の意味があるはずだ、本当の意味を一意に決められるはずだ」という想定を生む。


つど歌われる現場で変化する声ではなく、時と場所を超えて、それ自身で自存する文字。

 

文字と一言でいっても、手書きで書きつけられた文字と、印刷された文字、それも大量にコピーされた文字というのは、異なった言葉づかいの癖を生む。さしあたって今の私たちに大きなインパクトを与えているのは、大量にコピーされた文字だろう。

 

コピーされた言葉は、いつどこでも、場所と時間を超えて、「同一」の言葉がいたるところにある、という事態を現実のものにする。私がいまここの手元で読んでいる本の言葉と、寸分たがわぬ同じ本の言葉が、どこかにたくさんあること。このことが「どこのだれにとっても同じ意味」というものが存在するはずだという感覚をもたらす。どこのだれにも当てはまる同一の正しい意味、という観念。

 

しかしこの観念は、ある言葉のひとつの意味を(つまりある言葉を他の言葉に置き換えるパターンを)、大量コピーで、一方通行的に頒布できた文字メディアの産物とも捉えうる。

 

声の文化では、伝承される言葉は都度、あるときある場所で声になる都度、変化してゆく。原初の起源、最初の言い方、といったものを問うことが無意味であるような、変化しつつ流れ伝わってゆくこととして、言葉がある。


マス・メディアを乗り越えつつある今日のメディアを「単一の意味の伝送」のモデルから開放し、「意味生成」のモデルで捉え直すために、この「声」のメディア観が手がかりになる。