言説−コミュニケーションの基本用語

個人や社会といった事は「言説」のさざ波の波頭のようなこと、として捉えうる。

 

内田隆三氏によれば、言説とは、歴史的な出来事として生み出される記号の体系や諸々の表現である。言説はそれ自体で時間を超えて存在するものではなく、「異なる人によって反復され、やがて消えてゆく」事柄、正体が固まらずにゆれ動く、流れのようである。

 

わたしたちひとりひとりは、自分が生まれ落ちた人々の間で、すでに使われていた言葉を借りて、語りうる対象を発見し、その意味を語ってゆく。わたしたちは多数のひとびとの間で反復される言葉の流れの中に掴み取られている。

 

言説を再生産し流通させるシステムが、メディアである。 メディアのあり方に応じて、異なる複数の形式の言説再生産流通システムがありうる。

 

例えば、大量生産された単一のメッセージを一方通行的に送信できるマス・メディア。その言説再生産流通システムとしての働き方の特徴は、言説の同質性、単一性を著しく高められる点にある。 

 

同質性、単一性を高められた言説は、その本来の「さざ波」としての振る舞いを、つまりゆらぎの上でかろうじて、価値の体系を維持しているという正体を隠す。あたかも同質性、単一性こそが本来の言説のあり方であり、ゆらぎは付随的なノイズである、といった感覚。

 

言葉とその意味をめぐっては、一方に、同質性と単一性が所与であり、ノイズとしての揺らぎを取り除こう、という考え方が、他方に、ゆらぎこそが正体であり、同一性と単一性は、ゆらぎながら流れていく言説を、その再生産と流通の仕組みを巧妙に制御したところではじめて得られる仮のものとする考え方がありうる。

 

前者が、同じ意味ということの無前提での伝送可能性を想定するのに対して、後者では、意味の同一性を保持するために巧妙な言説再生産の仕組みを運用する、という課題を私たちに求める。

 

仮に、言葉とその意味の同一性が、ゆらめくさざ波の小さな波頭のようなものとしてしか、ありえないのであれば、おそらく、近代メディアの環境が養った、同一性を所与の前提として要求することは、あまり器用なものではない。


意味は言い換えであり、言い換えのルールは常にゆらいでいる。すでにそれによって、私たちが自他を関係付けている言説。 その姿や、その変化の仕方を知ることが、異言を聴き、沈黙を聞く耳の出発点となり、ひいては意味ということを積極的に引き受ける根拠となりうる。