意味の失調−コミュニケーションの基本用語

意味の正体は「言い換え」であると書いたが、この言い換えはどこかで「言い換え終わる」ことが無く、延々と繰り返されてゆく。

 

私たちが好むと好まざるとにかかわらず、意味とはそのような延々と続く言い換え作業である。

 

こうした言い換えの連鎖を甘受して生きる場合、比喩の能力というものが重要になる。

 

折口信夫は、人間には、別化性能と類化性能という、ふたつの思考能力があると言う。

 

  • 別化性能とは、ものごとの「違い」を見抜く能力、物事を区別する能力である。
  • 類化性能とは、一見違って見えるもののあいだに、類似性や共通性を発見する能力、である。

 

比喩の能力とは、この類化性能である。比喩は、これがあれのようだ、あれがこれのようだと、違うものを同じに、入れ替え可能にしてしまう。

 

人の言葉や思考というものが、おそらく、あるものを他のものから区別することに端を発し、この区別の組み合わせを重ねてゆくことであるとすれば、ものごとを区別する能力と、区別された項のあいだに類似性や共通性を見出し、区別を無効化し、別の段階の区別へと導く能力、この両方の能力は「言い換え」が続いてゆくための不可分の原動力である。


このふたつの能力は両方同時に、あるいは交互に、ペアになって活動すべきものである。どちらか片方が弱体化してしまうとき、人間の社会には「意味」の失調といえるような事態が訪れる。

 

あらゆるものを、あるいはある程度どんなものをも、それに「言い換える」ことを可能にするものがある。

いわゆる「単位」と呼ばれるものである。例えば「お金」などが好例だ。

 


お金はあらゆるものを単一の価値で共通化するという意味で、類化性能の真骨頂のようにも思えるが、じつはそうではない。

 

あらゆるものを、貨幣価値というひとつのものへ「言い換え」てしまうことは、言い換えの前提となる区別された物事を消去してしまうことである。その先にあるのは、違うものの間に共通性を見出すことではなく、はじめから共通性しかない世界である。単一の共通性を単一の共通性に言い換える、ということは結局のところ何ら言い換えてはいない。

 

そこでは区別する能力さえもが失調してしまう。かろうじて単一尺度上での大小、高低の区別ができるくらいである。

 

区別もできなければ、言い換えもできない、そのような事態を意味の失調と呼べるのではないだろうか。

 

と、これは極端な話である。 

実際のところ、今日の私たちは区別もできれば、言い換えもできている。問題は区別の仕方、言い換えの仕方というものの選択肢が、乏しくなっていることにあるのかもしれない。

 

選択肢という言い方が不似合いだとすれば、次のような言い方はどうか。

個々人が好き勝手に区別をしたり、好き勝手に言い換えたりすることはできる。しかしそのようにしても、好き勝手な区別や言い換えを、グローバルなスケールの区別システム、言い換えシステムに、接続困難になっている、あるいはなっていた、と。

 

その困難を生じた理由のひとつが、おそらくは近代以降のメディアの、同一メッセージの大量コピー&一方通行での大量配信、という癖にあるのだが、これについてはまた改めて考えてみよう。