レヴィ=ストロースの神話理論から考える、コミュニケーションの理論 ーコミュニケーションの基本用語

レヴィ=ストロースの神話の理論がコミュニケーションの理解にどう寄与するのか、まとめてみよう。


レヴィ=ストロースの神話の理論は、神話の思考を以下の様な円環のプロセスを描く運動と捉える。

  1. 区別する。
  2. 区別がゆらぐ。
    • 区別ができなくなる混沌が生じる
    • 区別された項同士の分離が進みすぎ、区別が見えなくなる
    • 区別されたもののあいだに同一性が見出され、区別が無効になる。
    • 矛盾した関係、区別された項のあいだの価値が交換可能になる。
  3. ゆらいだ区別を、別のレベルで新たな区別として生まれ変わらせること

このサイクルは、どれか一段階だけでは人間社内の言説流通システムとしては不十分と考えられる。

過去の民俗、神話や儀礼には、このプロセスを社会の中、あるいは社会とその外部との境界でうまく回してゆく知恵をみることができる。


遠い過去から行われてきた祭式や儀式は、病気、死、血といった「ケガレ」に際して、それを新たな体系の生成へと結び直そうとする知的操作である。


民俗学でいう「ケガレ」とは、区別をゆるがすもの、である。ケガレは所与の区別の体系をゆるがすもの、通常の区別の体系では分類しきれず、体系を逸脱するものである。これは区別の体系の中から見れば曖昧なものである。重要なことは ケガレは分類の体系があるところで、分類の体系を侵犯するものという形式でのみ見出される。ケガレを生むのは区別の体系であり、区別の体系が無いところにはケガレはない。

 

祭式は、ゆるがされた区別を元々とはずれたところで再生させようとする。それは区別の体系と混沌の転換サイクルを実演してみせる営みである。秩序から混沌へと入り込み、そこから回帰して秩序を新たに立て直す。この時、建てなおされる秩序は元のものとは異なっている。


一度、体系から出発して混沌へ至ること。そして混沌から体系を新しく作り上げること。言葉によって区別の体系に捉えられた人間は、この円環から抜け出すことはできないのかもしれない。


私たちはいつも、祖先から受け継いだ言葉から出発するのであり、その出発点がすでに区別の体系である。あらゆる区別に先立つ原初の混沌に、最初の区別が生じる…ということは理念的には考えられるが、社会の中では考えられない。社会はつねに、すでにある区別とその揺らぎと、新たな区別への回帰の円環としてしかありえない。そこでは混沌もまた、すでにある区別の体系からの逸脱として見出される。


この円環が作動するプロセスは、オートポイエシスのシステム論の知見からも説明しうるだろう。あるいはオートポイエシスのシステム論の普遍性、つまり知性の親和性は、他でもなくこの、体系、混沌、新しい体系の円環運動を捉えうるという点に依るのかもしれない。

 

以上の観点から、コミュニケーションということを考えなおすと、次のような論点が浮かび上がる。


  • まず、コミュニケーションには、所与の区別の安定を前提とした合理的な信号のやりとりという形態がありうる。あるいは、所与の区別を安定させるために、予め区別された体系だけを再現し、それを逸脱する象徴的言葉づかいを排除するという形態もありうる。
  • 一方で、区別を揺るがす、区別された体系の安定性を逸脱するものいいもありうる。と同時に、こうした揺らぎを引き起こした言葉から、新たな安定的な区別の体系を再生産するという形態もありうる。


こうしたコミュニケーションの諸形態を、うまく組み合わせ、例の円環を回してゆくことが、過去の人類社会の大きな関心のひとつだったのかもしれない。


ここから転じて、現在のコミュニケーションはどうだろうか。

人の区別の体系は円環運動せざるを得ないにもかかわらず、区別を固定し、区別された項を分離されたままにするコミュニケーション技術が、かつてなく強い影響力を持ってしまった、それが近代という時代なのかもしれない。


同一の信号を一方通行的に大量に送出できる近代のメディアは、言葉の同一性を安定的に保つという上で、それ以前のメディアとは比較にならないほどの性能を持っている。一方通行&大量生産の言説流通システムは、予め区別された体系を至る所で大量に再生産することに長けている。


もちろん近代以降の社会でも、この円環は回っているのだが、しばしば個々人のもとでミクロに始まる区別の揺らぎや、区別の体系の再建の試みを、一方通行的に送りつけられる大量の言葉がかき消してしまう。


なによりも私達自身が、自分がそれに拠っている区別の体系は安定的であるべきであり、その安定性は万一にもゆらぐべきではない、と信じることを容易くしているのが、このメディアではないだろうか。