情報の同一性は短期的にしか持続しない。
自壊してゆくものを再生産しようと試み、短期的な同一性らしきものを束の間浮かび上がらせる。そうした動態こそが情報の正体なのかもしれない。言うなれば、一見して実在するかに思える固定的で同一性を保った「情報」というのは、川の流れに見える束の間の渦のようなもの、である。
では、あるひとつの短期的な持続は、ランダムに生じた渦の、偶然の、たまたまの、よく言えば奇跡的な持続なのだろうか?おそらくそうではない。束の間の渦は、必ずしも、かならず消えてしまって、二度と現れないのではない。一度消えた束の間の渦が、また蘇り、そしてまた束の間の生命を持続することがありうる。
短期的な持続を何度も何度も生み出しては解消させている、ある別の階層の情報の持続運動がありうる。
いうなれば、渦に対する川そのものの流れ、情報現象としての個々の生命の生と死を超えた、生命現象そのもの持続の作用ような事柄である。
情報の短期的な持続運動は重層的なシステムである。個体としての情報の再生産と持続はもちろん、もう少しスパンで、種としての持続がある。振動やゆらぎ、同期現象として説明できる、持続とその消滅と、再発生。この脈動するシステム。ひとつの持続する情報は、ある別の次元で脈動するプロセスが、ある一瞬の切断面に写像する影のようなもの。
異なる層間で互いの情報を読み取り合う運動が、各層の情報を持続させたり中断させたりする、鍵になる。
この運動にリズムをもたらすメディアの働き方を捉えることができたならば、情報のデザインにどれほどの知見を与えてくれることだろうか。
件の「伝承」にも、ある束の間と束の間をつなぎ、インターフェースする仕組みの働きをみることができる。
ある伝承の束の間の持続と消滅、伝承による伝達と、遠い時間の先にまたよみがえり持続すること。この間欠泉的なプロセスは、別のスケールの渦がもつ円環運動の持続から生まれた固有の振動の産物、と捉えることもできる。
この円環運動そのものの持続性と、そこから生じる法則性は、レヴィ=ストロースが「構造」と呼ぶ運動であろう。
構造の動態、つまり渦を生みだす脈動する運動の法則性を知ることは、おそるべきスパンで持続しつつ、私たちの偶然に見える小さな渦たちの生起消滅の場となっている、別次元の渦を、束の間垣間見る知恵を人類に与えるのではなかろうか。
20世紀の知はそういう運動する重層構造に気付いてしまったのである。システム論や情報に関する知というのはそういうことを扱っているのである。
コメントをお書きください